Mr.D’s Diary -ADHDで捻くれた俺が如何に社会復帰するかの悪戦苦闘記

ADHD当事者が如何に社会復帰してくかのブログ。

解説! it それが見えたら終わり でJKの心の中が見える!


it それが見えたら終わり、という映画を見た。ホラー映画は初体験だったのだが、非常に面白く、そして考えさせられる内容だったので暗い部屋で手をガックガクさせながら解説していきたいと思う。ネタバレはしたくないというか思い出すのが嫌なのでおおよそしないつもりだ。あのどったんばったんを体験してからこの文章を読むとすごくわかりやすいと思うので見ていただけると嬉しい。


面白い事に、この映画、米国と日本では味方が全くだろう違う事に気付いた。


いや、同じようで思想的に全く異なる見方出来る映画なのだ。


まず米国的な見方がとにかく政治色に富んでいて面白い。


簡単なストーリーは1989年の保守的な白人の街をピエロの殺人モンスターが子供密かに襲い、それにスタンドバイミーまんまの子供達のグループが対抗する話なのだが、その描き方か非常に美しかった。1989年の歪な街の光の闇の対比をとても美しく、かつ緻密に描いている。とにかく冒頭や町並みの風景、人物の描き方がとにかく美しいのだ。


一見それは昔の思い出みたいな物の美しさや懐古主義を賛美する内容に一見すると見える。かと思いきや、その裏にある主張はそうでもない。あの頃は良かった。と言っていたその裏で何が起きていたのかを非常に事細かく描いている。


その裏で象徴的にピエロが暗躍する構図は、表面的に見てジェットコースターのような爽快感と恐怖を与えるが、一歩引いた目線で見るとまるでダークヒーローのように僕らに対して社会的なな意味合いを投げかけてくる。


僕らは差別や迫害、発達障害、そしてテロリズムに対して僕らは何が出来るんだろうか?そして子供達をどうやって救う事が出来るんだろうか?そう言った大人になると忘れてしまう問題を皮肉たっぷりに定義している作品に思えた。


劇中ではヒーローは助けてはくれない。スーパーマンはボケた薬剤師になって、タバコの万引きにすら気づかず、アデロールやストラテラの処方しかしてくれない。


それにひきかえ子供の両手は有り余る問題を抱えている。宗教、イジメ、家族の死別、家庭環境、性別人種。それに加えてつけ込んでくる悪に対して戦わなくてはならないのだ。


それらは、一見してホラーのようで、実際はアメリカの歴史をなぞるようだった。アメリカの歴史の抱える問題の縮図をこの映画は表現しているように感じた。


定期的にだれかが危険にさらされる。その時、私たちはどうすればいいのか?


それの答えを映画の背後にあるメッセージとして感じた。


恐らくアメリカのうけとった答えは政治的な意味合いを多分に含んだ物だろう。


ロナルドレーガン政権が終わりパパブッシュが当選した頃、アメリカはたしかに良かったかもしれない。しかしながら、それの裏にはなにがあった?僕らは何を犠牲にした?そこから反省した事を僕らはもう一度繰り返そうとしているぞ。二十七年置きに悪は来る。ロナルドレーガン、そして今はトランプだろ?そして、その悪に対抗できる俺たちの手にはは1人1票がその手に委ねられている。


というメッセージが多分に多分に見て取れる内容だった。


しかしながら、僕らはそういう土壌がないのにも関わらず無邪気にこの映画を楽しんでいる。そういう意味で特に女子高生にこの映画が人気だという事に嫌に不安感を覚えた。


この映画を10代の現代の少女のアイデンティティの話と読み解くと驚くほど歪な様相を呈している。正直僕はホラーシーンよりこっちの方が面白く不安になった。


恐らくいい意味でも悪い意味でもこの映画の思想は今後の価値観の規範になると思う。


この映画を少女の目線から見てみるととにかく今の少女が性的に、身体的に危険に晒されいて、いかに女として見られる事に辟易しているかがわかる。そして、それをだれも止めてはくれないのだ。ヒロインは親から性的虐待を受けていて、周囲からは淫乱扱いされている。とにかく一貫して性の対象として描かれ、そしてそれに苦悩する。そこで恐怖の対象として描かれるのは、女としての性と、年上の男性だ。


そして恐怖を餌に殺人を侵す殺人鬼と性的な恐怖との板バサミによって苦悩する。


以前、ネット上のシリアルキラーの話も書いたが、ネット上で個人的なアイデンティティを発露した結果殺人に追いやられる恐怖や、性的な目線で見られる事への恐怖を彼女たちはもう嫌という程体験しているんじゃないだろうか?そう言った表現にも取れるのだ。


そう解釈すると、シーンの解釈はどんどん歪なモノになっていく。


1つに、イジメの解決手段として石投げでいじめっ子を撃退するシーンがある。普段は弱くて馬鹿にされていても、多人数で力を持てば勝てるという、米国では民主主義や投票の強さ、団結の強さを表したシーンでもあるが、女子高生からみればこれはSNS上での個人攻撃の肯定でしかない。数で勝れば悪を糾弾してもいいのか?一歩間違えはこれはリンチの肯定の解釈ともできる。悪に対するイジメの肯定だ。


また一方で、イジメっ子も非常に複雑な問題を抱えている。そう言った問題で踏み外してしまう子供達を僕らは糾弾して、石を投げて、リンチする事でしか解決出来ないのだろうか?一歩間違えば僕らはリンチの対象になりえるのか?誰でも。


また社会問題としての発達障害もはっきり否定している。アメリカでは彼らは過剰投与で普通の子供にすらアデロールを与えるような環境に悩んでいるが、日本でほぼ精神論の容認にしかほかならない。現状を知らない状態でのこの差異ははっきり真逆の解釈をする人が続出するだろう。


またそうした超複雑な問題に安全をもたらしてくれるのはこの映画では、仲間と、友達と、恋人しかいない。


誰も大人は助けてくれないのだ。


まとめれば、

みんなで悪い奴に石投げで数で勝てばいい。年上特にオヤジは怖い。年上の女とかまー空気だから。いないのと同じ。だからどんどん女性である事を削っていこう。だけど1人でいたら悪い奴に殺されちゃう。だから同年代の友達を大事にしよう。共通の趣味を持った同年代の沢山の恋人と一緒になんとか大人になるまで乗り切ろう。ちなみに発達障害とか甘え。でもそんな風に子供をしないように俺ら立ち向かおう。(子供作らないようにしよう?)

とも解釈できる。そしてこれを時代通念としたが最後、僕らは誰は異物を徹底的に糾弾して、見たくないものを見ない解決しない人間がなっていく気がしてならない。


いよいよ日本の価値観がぶっ壊れ始める時に来ているんじゃなかろうか?そんな感じがする。こういう価値観に悲しくも共感してしまう子供達に対して、俺は何が出来るだろうか?