Mr.D’s Diary -ADHDで捻くれた俺が如何に社会復帰するかの悪戦苦闘記

ADHD当事者が如何に社会復帰してくかのブログ。

座間市の連続殺人白石隆浩によって僕らは

今回の連続殺人によってインターネットでの人間関係の私の持論を変えざるを得ない状況になったのでそれを書きたい。


以前書いた、僕らに死ぬ場所をくれ。という記事を書いたが、あれが間違った方に作用する可能性が出てきた。


基本的に政府に出来ることは、慈善、あるいは企業によって少々歪んだ形によって代替する事がある程度可能だ。と考えている。


しかし、個人や企業が自分の合理や思惑によって行動する性質がある以上、(行政も大概そうなのだが)あるべき形から歪んでしまう。


自殺したい。という願望を叶えて欲しい人達が一定数いる中で、僕らは倫理的な側面からそれを許容する事が出来ない。小学生の3割が死を考える時代だ。それが心的状態などによって自殺的行動に移すことも少なくない。


その願いを個人が代行するためにシリアルキラー達がその役割を担う可能性があった事を僕は可能性として考えていなかった。


殺されたい人達が殺したい人に自分の命を委ねる。それは一見して完結しているように見えるが、自浄作用が働かない。その自浄作用は個人の酌量に委ねられてしまうのだ。


その自浄作用を倫理の壁、という事にしよう。僕らが公的な機関や場所においては個人の議論が闊達に成る為、ある程度の個人の倫理観が民意となって、行動に制約がかけられる事がある。例えば昨今の不倫騒動などはその多少の悪例だろう。個人間の自己責任における法的責任のない悪事にすら他人の目が介入する事によって行動が制限される。それは嫉妬や利己的な感情もあるだろうが、ぼくは大多数の人達が自分の倫理的にこの人の行動をやめさせなければならない。と考えているが故の事だと解釈している。そんな倫理の壁が僕らに不自由を被る一方で、ある程度の恩恵をもたらしているのではないか。そんな風に思うのだ。


2015年が倫理の壁が摩天楼を築いた時代だとするならば、

二年経た2017年は倫理の壁の隙間で起きる悲劇に焦点の当たる年になったのではないだろうか。


Twitterのダイレクトメールなどでやり取りがされていると個人間のやり取りには他人の目が介入しない。その為に倫理の障壁が存在しなくなるのだ、


そういった隙間につけいった自殺補助のシリアルキラーは暗躍を始める。


そういった人たちに対して、僕らはどういう行動をすれば対応できるのか?という問題にぶち当たる。


そういう時に必要なのは、ある程度のリテラシーを持った助言者だと考える。


誰かが自殺したいと考えた時、悩んでいる時に、冷静に助言や仲裁を行える存在を作っておく必要がある。それは家族や、近しい友人が理想だが、ぼくはそれがインターネットにあってもいいと思うのだ。

インターネットの利点は匿名性と能動性だ。


匿名的に、自分との関係を限定的に説明したり、気概を加えられない形で自分の思っている事を相談したり、時として助言してくれる相手がいてもいいと思うのだ。


インターネットにシリアルキラーがいる。しかしながらその犯罪を止めたいと思っている人間もその何万倍も存在する。


少し、ほんの少しだけ誰かにそれがいいかどうか確認できる相手を作っておくだけで、この手の犯罪はかなりの割合で抑止出来ると考える。倫理の壁を命綱に変えるのだ。


本当の恐怖は孤立だ。だれも助けてくれない状況に置かれた時に人は悲劇に巻き込まれる


自分が絶望に浸った時、辛くて死にたくなった時、誰かが止めてくれる事が必要なのだと思う。


倫理の壁は人を不自由にする。しかしながらそれなしでは僕らは自由になる反面、大きなリスクを負う事になる。


もしネットでの人付き合いが多く、自分の子供が不安な親がいるとしたらこう助言したい。


「ネットは便利だし多くの価値観に触れる機会だと思うし止める理由はあまりないとは思う。だけれど、自分が何かしたいと思う時、それがいいか悪いかをある程度相談出来る相手を作っておきなさいと助言すべきだと思う。倫理の命綱を忘れるな。


そう言っておきたい。


ネットの闇みたいなものが昨今よく取り沙汰されるが、ぼくは何度となくインターネットを使って人と会ってみたが、そんな世界を体験した事がない。とはいえ実際にそんな人達がいるのもまた事実である。その明暗を分けるのはきっと、何か怪しい。とか、個人の倫理観の制約や感性によっている部分が大きいと思う。またそれを最低限の範囲で相談出来るのもSNSだと思うのだ。


人はそんなに怖くない。そう思っていた。しかしながらそれは結局は誰かとの繋がりのおかげなんだろうなと感じもした。見えない壁の中に守られて不自由の中をいくのか?それを破って危険な領域に飛び出すのか?その二元論はもう終わった。これからは倫理の命綱として、人とのコミュニケーションを利用しつつ挑戦する時代になっていくのかもしれない。