Mr.D’s Diary -ADHDで捻くれた俺が如何に社会復帰するかの悪戦苦闘記

ADHD当事者が如何に社会復帰してくかのブログ。

発達障害とは、そもそも何ぞや?

ADHDアスペルガー学習障害その他諸々。


よく分からん名前数多くあれど何が何だかさっぱりわからない。という方も多いはず。製薬会社の陰謀なんだとか作られた病気だとか言われるから本当はないんでしょ?とか(その辺のデマを巻いたギズモードは本当に迷惑してるので反省してくれ)、なんのかんの言われるが本当のところはどんなもので、論じている人達も分かってないのが実際のところだと思う。


なのでざっくり何にも理解のない人にでもわかりやすく、


発達障害をどう理解すればいいのか?

発達障害の人とどう関わっていけばいいのか?


と言った事を、当事者が極論で噛み砕こう、というわけで、専門知識を極力使わず、ざっくり自論を展開してみたいと思う。


まずはっきりさせておこう。発達障害とは一体なんなのか?


簡単に言えば、発達障害とは、簡単にいうと自分が人と違うと感じて困ってる人だ。


勉強してるのになぜか文字が読めないとか、

ふつうに勉強してるはずがなーぜか計算が苦手。

だったり、シャツの感覚が死ぬほど嫌で苦労していたり、

時間管理がとんとできなくて遅刻ばかりしていたり。

あるいは忖度がとても苦手で仕事を自主退職しろと脅されたり。


それを背景には、生まれ持って人間として発達するだろう脳の箇所や、その周辺の体の部位(特に目とか耳とか)が上手く成長出来ていなかったりする事がある。


そういう場合体は一見して正常でも、

仕事が上手くいかない。

なぜか人と上手く関われない。

モテない。

部屋がゴミ屋敷だ。


なんていう、皆違ってみんないい。では少々済まされない問題が出てくる。


そんなもので、自助努力ではどうにもならなくて困っている原因の1つを、発達障害と呼ぼう。という動きがある訳だ。

主にTwitterやニュースで見る発達障害はこん感じに押さえておけば大丈夫だ。そこそこ物知り扱いされると思う。


また、もう少し物知りになりたいとしたら、それはごく小さな範囲で、ダウン症自閉症。と言った、ぱっと見で見える障害も含まれている。という点も抑えておこう。


昔の頭の良かった方々はこの辺を知っているので、この辺の言葉遣いに若干の食い違いが生まれたりする。


元々発達、という言葉にもある通り発達障害というのは軽度の精神遅滞のような考え方だったらしい。

だから自閉症やダウンのような目に見えて違いのわかる分野や、特に問題になるような側面を検診などで判断していたのだ。


そこで判断できるラインはかなり詳細に見識や知識の積み重ねがあったし、大人になっても残るようなものは知的障害として福利厚生が受けらたりと、かなり制度として整っていた。


しかし、幼児検診や学校生活などで出ない、部分的に知能が低いものとか、今まで本人の努力の問題として片付けていたような物事も、実は脳の生まれついての性質でかなり左右されているのではないだろうか。そういう人達にも支えは必要でしょう?というのが今の発達障害についての運動の起こりな訳だ。


なので、元々発達障害が子供にしか適応されなかったのも、元々は発育の遅れ、から語源が来ているためだ。


例えばADHDという障害があるのだが、これは未だに知識の量が乏しいので、成人期には完治するという説と完治しないという説が混在している。古くは語源の通り完治する。という説が一般的だったが、今は成人になってもその症状はかなりの部分で残るのではないかという説も有力な説とされている。


つまりまだわからない。


分からないし、論争に決着はついていないのだけれど、実はこれを言葉として使う上で妙な利点があるのだ。


そこが発達障害を知る上でかなり面白いポイントでもある。


発達障害はなぜか生活に困っている悩みの分類の一部として非常に有用なのだ。


努力はしているだけれど時間がなーぜか守れない。

計算が苦手。

文字を読むのが苦手だ。

人と話せない。


要するに誰でもある悩みだ。その程度が問題なだけで。


今までの昭和ピーポーはその生活の悩みを努力!フォーディズム!一緒にがんばろう!でなんとかしてきた。それでも個人としては相当な苦痛はあったろうが、それは窓際とか言いつつも家庭が持てたり、直接貧困など不利になる条件では必ずしもなかったんだろう。


しかしながら、バトルロワイヤル世代の平成ピーポーは、効率重視!自己責任!暗黙の了解!と、他人が死のうが苦しもうが自分達が楽しきゃいい世代である。能力がない空気が読めない連中はさっさと排除する。つまりどこにも属せない。這い上がる機会がどんどん減ること、それは緩やかな死を意味する。誰も見返りなしに助けちゃくれやしないのだ。


そんな時代通念の中で生きている僕らにとって、生活の悩み、特に規律とか、コミュニケーションの悩みは直結して生きていけなくなる事に繋がっている。


精神科医がつけたどうのこうのはこの際置いといて、ある一定の人達は自分の生まれ持っての性質のせいで、誰も助けてくれない世界で不利に追いやられようとしている。


生まれ持ってのものの違いで生活の質が決まる。それはつまり新しい階級制度になりゃしないか?そんな危惧があってこの議題は熱くなっている。僕はそう解釈している。


そして、当事者として僕は障害を持ってようが持っていまいが関係ないと思っている。

周りの人に関して理解を求める上でも一緒だろう。


障害だから。ではなく、僕らは困っているのだ。他人に何百回とアドバイスを聞きそれでも、あるいはそれを受け入れられず、上手くいかずに人生に悲観して生きる手立てを見失っているのだ。


ただ、たった5分の遅刻をどうにか出来ずに人からの信頼を失ってしまう。


自分じゃコントロールしにくい事で人から嫌われる。


文字や数字が理解しにくい。


自分の不注意によって人を傷つけてしまうかもしれない。人生を変えてしまうかもしれない。


その人個人についてまわる悩みと発達障害という性質が共通しているだけだ。それから受けられる便益は金銭、投薬を含めて多々ある。しかしそれを使うか使わないかは解決法の1つでしかない。


発達障害の根本は、生活の悩みが直結して不利に繋がる時代通念にあるんじゃなかろうか。


無能がマジで食えなくなる世の中だ。

解決策が簡単にネットで調べられる今、悩みとは能力の欠如になりつつある。

つまり悩みは直結して不利に追い込まれるかもしれないという危機感を帯びてくる。

つまり悩みの根本が発達障害という生来の性質によるものに似通ってくるのだ。


今までの事を踏まえて、質疑形式で、簡単にまとめる。


そもそも発達しょうがいは本当にあるのか?という声もある。


それにはこう答えたい。医学的には諸説ある。しかしそうかもしれないという言葉の元には悩んでいるその人がいる。そしてその悩みを放置しておくと一層自分窮地に立たされる事になるという危機感と、自分一人ではどうにもならない苛立ちがその裏にある事を理解してあげて欲しい。



能力ない奴はいらないと思うよ?


そういう声もある。そうかもしれない。でもその人が解決策を探すのを諦めたら待ってるのは孤独と上手くいかないだけの陰惨な日々だろう。僕はそうなって欲しくないと思う。また、そういった思想をもって、持たざる人を排除すれば、おそらく次はあなたの番だ。あなたがした時と同じように相対的に無能の烙印を押された時、あなたはやんわりと排除され、誰も助けちゃくれない。見向きもされないだろう。そういう社会で少なくとも僕は生きられないと感じている。


こうすれば絶対上手くいくのになんで出来ないの?


よく当事者が投げかけられ傷つく言葉だ。貴方に悩みを打ち明けている人はその場限りの解決策をあなたの口から必要としているんだろうか?その問題を自分で解決する為の勘の養い方、ロジックの組み方、能力の訓練、フォローのお願い、不安感の緩和を貴方に求めているのだと私は思うのだ。いくつかある中で貴方は何を求められているんだろう?それを見極めて欲しい。


発達障害と子供が診断されたら?


これだけは敬語で書かせてください。とても不安に思う気持ちはすごくよく分かります。コップに半分注がれたコーラを、まだ半分ある。と思えるか、もう半分しかない。と捉えるかは貴方次第です。まだ半分あると思うなら、きっと診断を受けられたのはラッキーです。

これからのお子さんの悩みの質や考えの指針が示されるでしょう。自分の子供の説明書なんてどこを探してもありませんが、発達障害に関してはそのガイドラインやアドバイスが数多くあります。きっと役に立つでしょう。

もう半分しかないという人は、これから自分の子が辛い日々を過ごす事になると不安に思うかもかもしれません。悩みを抱える時、それを解決へと模索する体験も、実はお子さんと一緒に悩みを共感して共に成長していくためのものなのかもしれません。

秋の道を手を繋いで歩くように、解決策は少しずつお子さんと発見していけるのかもそれません。



僕らは多かれ少なかれ悩みを抱えて生きている。悩みの質やそれの緩和の仕方、考え方それらの過渡期に来ているのだろう。

この先の過渡期を越えた先には、より僕らにとって心地いい理念や、のんびりと暮らせる日々が待っている。そう信じたい。