Mr.D’s Diary -ADHDで捻くれた俺が如何に社会復帰するかの悪戦苦闘記

ADHD当事者が如何に社会復帰してくかのブログ。

才能がない人の愚痴


才能のある人はいう。

貴方に才能がないから食えないんだよ。


そんな事は99%くらいの人はギターでFコードをおさえた時、DawVSTを積もうとした時、1つ1つのつまみをいじる時に苛まれている事だ。


そう。世の中には圧倒的な(ナニカの壁)がある。それは常人には見えない壁だ。それを超える為にみんな努力している。ただその壁を超えられるのは限られたナニカを持つ人間だけである。

それは美貌だったり、ちしきであったり継続性であったり形を変えて僕らのまえに立ちはだかってくる。


ノブリスオブリージュという言葉があるが、僕はそれをあえて逆に捉えたい。

ノブリスオブリージュとは大いなる力のあるものは大いなる責任をともなうのだ。という正義論的な哲学や思想の事である。

最近だとサム・ライミ版のスパイダーマンで、主人公が悪と戦うモチベーションの根底として取り上げられていた思想だったりする。

元々はアメリカの女性作家ケニー・ファンブルの手紙が端を発している。そのせいなのか、自由主義の1つの根底を為す考え方だとも言える。


しかしながら僕にはそれが持たざる者への迫害と取らずにはいられないのだ。

大いなる力は世界を広く、刺激的に、強大な自由とともにそれは与えられる。

しかしながら力のない僕らはどうだろうか?

勇気がなければ悪と対峙しようとも思わないし、仕事をこなす事でしか、つまり能力や結果によってしか収入や人からの信頼を得られない。言葉の認知能力のない人は概念的な理解が出来ずに視野の狭い行動しかできなくなる。そして持つ者から施されるものをただ口を開けて待っていることしか出来ない。


僕は発達障害者として、自分の社会復帰を考えていた時に、僕は早期にそこにぶち当たった。


神は乗り越えられるものにしかチャンスを与えないのだ。言い換えれば、やろうとしないやつ、出来ない奴に僕らは能力を伸ばす機会を与えたりはしない。


一生力は与えられることはない。だとしたら僕は矮小なままチャンスを掴まずに終わるのではないだろうか。


僕らには自由があるようで、その世界には脳力という明確な足かせによって僕らの世界は歪曲してしまってはいないだろうか。


僕らのみている世界は同じなようで皆他人と違う世界だ。歪んだレンズが受けた光を適切に受け流せないように、出来ないということは、意思決定や普段の所作全てに僕らは目が見えない以上の不都合さがついてまわる。


それを部品として使う側は単に普通の人以上よほど適所におき慎重に扱わない限り本来のパフォーマンスを行うことは難しいだろう。

故に僕らは多様性が許容される職業選択がなされることによって、実はさらに首を絞められることになる結果を生むのかもしれない。


自由と言われている個人事業主とて労働者としての後ろ盾も全て勝ち取らなければならないし、供給者として競合するなら高品質の商品を提供しなければならない。そして数多くのタスクを自分一人でこなす事が求められる。


しかも同時に健常者と同等の環境と戦っていかなくてはならない。ブルーオーシャンと言えどいずれは濁り赤く染まっていくし海そのものが枯れていく中、僕らは何をすればいいのだろうかさ。


結果として僕は発達障害はこれからの優しい世の中にどんどんと淘汰の一途を辿るのかもれしれない。人はなりたいものになれる。ただ壁はなれるものが多ければ多いほど高くなる。そしてそれを超えられる人は超えられる資格を持っていた人だけなのかもしれない。


そしてそれは発達障害だけではなく、今までなんの不都合なくいきられた人にとってもそうなっていくだろう。


これから先、圧倒的な絶滅が待っている気がしてならない。