Mr.D’s Diary -ADHDで捻くれた俺が如何に社会復帰するかの悪戦苦闘記

ADHD当事者が如何に社会復帰してくかのブログ。

解説! it それが見えたら終わり でJKの心の中が見える!


it それが見えたら終わり、という映画を見た。ホラー映画は初体験だったのだが、非常に面白く、そして考えさせられる内容だったので暗い部屋で手をガックガクさせながら解説していきたいと思う。ネタバレはしたくないというか思い出すのが嫌なのでおおよそしないつもりだ。あのどったんばったんを体験してからこの文章を読むとすごくわかりやすいと思うので見ていただけると嬉しい。


面白い事に、この映画、米国と日本では味方が全くだろう違う事に気付いた。


いや、同じようで思想的に全く異なる見方出来る映画なのだ。


まず米国的な見方がとにかく政治色に富んでいて面白い。


簡単なストーリーは1989年の保守的な白人の街をピエロの殺人モンスターが子供密かに襲い、それにスタンドバイミーまんまの子供達のグループが対抗する話なのだが、その描き方か非常に美しかった。1989年の歪な街の光の闇の対比をとても美しく、かつ緻密に描いている。とにかく冒頭や町並みの風景、人物の描き方がとにかく美しいのだ。


一見それは昔の思い出みたいな物の美しさや懐古主義を賛美する内容に一見すると見える。かと思いきや、その裏にある主張はそうでもない。あの頃は良かった。と言っていたその裏で何が起きていたのかを非常に事細かく描いている。


その裏で象徴的にピエロが暗躍する構図は、表面的に見てジェットコースターのような爽快感と恐怖を与えるが、一歩引いた目線で見るとまるでダークヒーローのように僕らに対して社会的なな意味合いを投げかけてくる。


僕らは差別や迫害、発達障害、そしてテロリズムに対して僕らは何が出来るんだろうか?そして子供達をどうやって救う事が出来るんだろうか?そう言った大人になると忘れてしまう問題を皮肉たっぷりに定義している作品に思えた。


劇中ではヒーローは助けてはくれない。スーパーマンはボケた薬剤師になって、タバコの万引きにすら気づかず、アデロールやストラテラの処方しかしてくれない。


それにひきかえ子供の両手は有り余る問題を抱えている。宗教、イジメ、家族の死別、家庭環境、性別人種。それに加えてつけ込んでくる悪に対して戦わなくてはならないのだ。


それらは、一見してホラーのようで、実際はアメリカの歴史をなぞるようだった。アメリカの歴史の抱える問題の縮図をこの映画は表現しているように感じた。


定期的にだれかが危険にさらされる。その時、私たちはどうすればいいのか?


それの答えを映画の背後にあるメッセージとして感じた。


恐らくアメリカのうけとった答えは政治的な意味合いを多分に含んだ物だろう。


ロナルドレーガン政権が終わりパパブッシュが当選した頃、アメリカはたしかに良かったかもしれない。しかしながら、それの裏にはなにがあった?僕らは何を犠牲にした?そこから反省した事を僕らはもう一度繰り返そうとしているぞ。二十七年置きに悪は来る。ロナルドレーガン、そして今はトランプだろ?そして、その悪に対抗できる俺たちの手にはは1人1票がその手に委ねられている。


というメッセージが多分に多分に見て取れる内容だった。


しかしながら、僕らはそういう土壌がないのにも関わらず無邪気にこの映画を楽しんでいる。そういう意味で特に女子高生にこの映画が人気だという事に嫌に不安感を覚えた。


この映画を10代の現代の少女のアイデンティティの話と読み解くと驚くほど歪な様相を呈している。正直僕はホラーシーンよりこっちの方が面白く不安になった。


恐らくいい意味でも悪い意味でもこの映画の思想は今後の価値観の規範になると思う。


この映画を少女の目線から見てみるととにかく今の少女が性的に、身体的に危険に晒されいて、いかに女として見られる事に辟易しているかがわかる。そして、それをだれも止めてはくれないのだ。ヒロインは親から性的虐待を受けていて、周囲からは淫乱扱いされている。とにかく一貫して性の対象として描かれ、そしてそれに苦悩する。そこで恐怖の対象として描かれるのは、女としての性と、年上の男性だ。


そして恐怖を餌に殺人を侵す殺人鬼と性的な恐怖との板バサミによって苦悩する。


以前、ネット上のシリアルキラーの話も書いたが、ネット上で個人的なアイデンティティを発露した結果殺人に追いやられる恐怖や、性的な目線で見られる事への恐怖を彼女たちはもう嫌という程体験しているんじゃないだろうか?そう言った表現にも取れるのだ。


そう解釈すると、シーンの解釈はどんどん歪なモノになっていく。


1つに、イジメの解決手段として石投げでいじめっ子を撃退するシーンがある。普段は弱くて馬鹿にされていても、多人数で力を持てば勝てるという、米国では民主主義や投票の強さ、団結の強さを表したシーンでもあるが、女子高生からみればこれはSNS上での個人攻撃の肯定でしかない。数で勝れば悪を糾弾してもいいのか?一歩間違えはこれはリンチの肯定の解釈ともできる。悪に対するイジメの肯定だ。


また一方で、イジメっ子も非常に複雑な問題を抱えている。そう言った問題で踏み外してしまう子供達を僕らは糾弾して、石を投げて、リンチする事でしか解決出来ないのだろうか?一歩間違えば僕らはリンチの対象になりえるのか?誰でも。


また社会問題としての発達障害もはっきり否定している。アメリカでは彼らは過剰投与で普通の子供にすらアデロールを与えるような環境に悩んでいるが、日本でほぼ精神論の容認にしかほかならない。現状を知らない状態でのこの差異ははっきり真逆の解釈をする人が続出するだろう。


またそうした超複雑な問題に安全をもたらしてくれるのはこの映画では、仲間と、友達と、恋人しかいない。


誰も大人は助けてくれないのだ。


まとめれば、

みんなで悪い奴に石投げで数で勝てばいい。年上特にオヤジは怖い。年上の女とかまー空気だから。いないのと同じ。だからどんどん女性である事を削っていこう。だけど1人でいたら悪い奴に殺されちゃう。だから同年代の友達を大事にしよう。共通の趣味を持った同年代の沢山の恋人と一緒になんとか大人になるまで乗り切ろう。ちなみに発達障害とか甘え。でもそんな風に子供をしないように俺ら立ち向かおう。(子供作らないようにしよう?)

とも解釈できる。そしてこれを時代通念としたが最後、僕らは誰は異物を徹底的に糾弾して、見たくないものを見ない解決しない人間がなっていく気がしてならない。


いよいよ日本の価値観がぶっ壊れ始める時に来ているんじゃなかろうか?そんな感じがする。こういう価値観に悲しくも共感してしまう子供達に対して、俺は何が出来るだろうか?


コンサータがやばい


何日かコンサータを飲まなかったのだがやばい。マジで不注意が止まらなくなる。


自分で見てて少し引く。



ハンタに学ぶモテ念能力講座 その2


さていよいよ能力の本番、発の話だ。


発は人によって様々な効果をもたらす場合が多く多岐にわたる。


それを主人公の師匠、ウィングの流派ではそれらを6つに分けていた。

強化

変化

操作

放出

具現化

特質

の6つだ。


これを対人関係当てはめるとこうだろうか


強化  人を導いたり、それぞれの悩みに対しての癒しや共感を得意とする人。


変化  人に驚きやサプライズを用意したり、助言によって価値観を変える事が得意な人


放出  人に元気を分け与えたり、何かを施す事が好きな人


操作 相手を諭しね導くのが得意で、説得力や向上心持っている人


具現化 物事を事細かに分類したり、的確なアドバイスができる人


特質  カリスマ性で人を惹きつけるタイプの人


こんな感じになると思う。


それぞれの系統と自分の思う強みとを関連させて対人関係を作っていくとすんなりと人との関係を築きやすくなるのではないだろうか?


基本的にモテる為の技術、人に好かれる技術というのは、操作系だったり具現化系の人のアドバイスが多い。


つまり自分の系統にあっていないと役に立たない事があるのだ。


人に共感するのが得意な人が人を巧みに動かそうとすると罪悪感に苛まれたりうまくいかなかったりする。

また人を説得するのが得意な人が悩みを聞くと大抵悩みに共感ができず、お互いに苛立ちが募る結果になる事もある。


人には人によって支えられるポイントがあるのだ。


それをそれぞれに照らし合わせて解説したい。


よくこの念の六系統はエニアグラムという性格診断が元になっていると言われているのできになる人は水見式みたいな感覚で調べてみるといい。サイトによってはきちんと六系統で説明してくれる所もある。


それぞれ自己診断の上で恋愛戦略を考えてみよう。


まず強化系は非常にバランスがいい。その為わりと誰とでも仲良くできる素質がある。その為一般的な恋愛はそつなくこなせるタイプだろう。恋愛テクニックより基礎の四行と出会いの場があればある程度うまくいくタイプかもしれない。複雑な恋愛論や恋愛体系を取るより単純な方法が功を奏するかもしれない。


変化形はサプライズが得意だ。相手の意表をつく事、驚かせる事が得意な為、アイデアのホールドをいくつも打っておくことが効果的だ。お洒落な店、雰囲気のいい場所、誕生日のサプライズ、それらを効果的に組み合わせて魔法のような体験を相手に事もできるはずだ。まずはデートに誘おう。そして魔法をかけるのだ。


放出はパーティのようにいろんな人と共に関係を作っていくのが得意だ。友達とBBQやら家族との食事、仲間との会話。そういった雑多な友達関係と恋愛が不可分になる関係があなたにとってより良い環境になるかもしれない。Wデートなどが効果的。食べ歩きやカルチャースクールなど人とコミュニケーションをはかる場所がいいかもしれない。


操作系はモテテク、心理戦などが非常に得意だ。恋愛に関する数多の本は貴方の為にある。その反面浮気に走りやすく、リスキーな賭けに出る確率も高い。その反面一番成功をつかみやすいタイプだ。一番デートが豪華にしがちなのもこのタイプなので破産しないように気をつけてほしい。


具現化系。一番恋愛と無縁な人かもしれない。自分の世界があり、あまり他人との接点を持たなくても人生がうまくいく。うまくコントロールしてくれる操作系や活力をくれる放出系との相性はいいのでそういう人を拠点的に見つける事が恋愛の一歩だ。恐らく、恋愛よりも人生の目標の過程に恋愛がある人だ。恋愛はあくまで貴方の人生の目標を叶えるための一歩だ。という考えの方が人生が豊かになるかもしれない。さもないと、女体をスケッチしたり匂いを嗅いだり触ってみたりして具現化させようとしかねない。いや、それも1つの愛の形か。


特質系。貴方のカリスマ性次第だ。四大行を極めると恐らく黙ってても誰かが寄ってくる。現在の結婚制度やら恋愛観に縛られない恋愛の形が貴方を待っているかもしれない。

貴方の思う通りの行動が一番貴方らしくそして魅力的だ。


それぞれの系統は互いに微妙に要素を帯びているのかもしれない。なのでそれぞれの要素を少しずつ取り入れつつ自分に合った方法を考える事が必要だ。

ハンターハンターに学ぶモテ念能力講座


ハンターハンターみたいに念能力のように人にモテまくれたりするならどんなにいいか。


しかしながら現実は甘くないもんで僕らは悲しいくらいに女の子にモテない。故にモテるタイプを簡易的にハンターハンターの念能力に例えて人間性や能力、モテ力をアップする修行体系を完成させてみたら面白いのではなかろうかと思うので思考実験してみる。ハンターハンターを読んでない方々にも分かりやすくしようとは心がけるが、より理解しやすくする為に読む事を進めたい。


まず、 ハンターハンターで主人公のゴンと友人キルアの二人が念の修行の始める前に出会う念の四大行という概念がある。


点を知り舌を覚え練を経て発に至る。


方便として使われていた精神修行の方法から行ってみよう。これは実は方便として使用されているがオーラを開くにあたっての初期の段階の心得であるとも言うことができる。


目標を定め それを念じて 鍛錬を積むことによって 到達点に達することが出来る。


というわけだ。つまり念じてモテ力を磨けば光る。というのは曲がりなりにも初歩の姿勢としては道理が通っている。まずはゴールを定めるのだ。そして鍛錬を積むことによって始めて効果は現れる。という大きな流れを掴むのだ。


これがファーストステップだ。そこから四大行は本格的なステップにはいる。


纒を知り絶を覚え練を経て発に至る。


ここから実際的な修行に入るのだが、ここで念を覚えるまでにはふた通りの方法があると説明されている。少しずつ段階的に覚えていくスタイルといきなりその状態に引き上げてしまうスタイルだ。


つまりこれを恋愛に当てはめると、デートなどを重ねて段階的に覚えていくシュチュエーションと、達人によっていきなりステージを上げるという手段を経る場合とかある。


恐らくこのスタイルとしては達人とは風俗などではなく、恋愛の達人という意味だろう。恋愛の達人にいきなりモテ状態を体感的に会得すれば急性長に至るという意味だろうか。

しかしながらそれが出来るやつは大抵僕らの周りにはいない。なのでゆっくり会得していくしかない。そこで四大行を少し工夫した解釈で置き換えてみよう。


纒を知り舌を覚え歛を経て髪に至る。


まず纒。服だ。服のサイズ感、印象、服装によって人は大きく変わる。まずはそこを変えることから始めよう。ファッション雑誌やアイテムの情報は数限りなくあってげんなりするが、少しずつでいい。この段階ではまだ失敗しても笑われるだけで済むのでゆっくり会得していこう。

また本来の念の纒はリラックスした状態が一番効果が高い。つまり服装などによって環境に自分のリラックスできる精神状態を作り上げる事が必要なのだ。


そして舌。トーク力だ。人が楽しくなる話のネタは主に面白い、楽しい、気持ちいい、清々しい、誇らしいの5つからなるらしい。それはのレパートリーを増やしていく事を心がける。また本来の念の絶とはオーラを断つ事だ。自分の存在を消す事が出来る。つまり不快な点をなくすこと、無難を学ぶ事が必要なのだ。口臭や体臭ケア、清潔感を会得する事で悪い目立ちを防ぐ事が必要だ。ここまでマスターすると普通の人間関係はかなり楽になる。


そして歛。つまり収斂させ、自分のスタイルを確立する事だ。絶と纒をマスターして初めて自分の纒を強化する事が出来る。服装もそうだし、ヒゲなどのオシャレも最低限の清潔を纏ってから行うものだ。本来の練も纒で纏ったオーラを強化する事だ。精神面では、戦闘のようなとっさの状況でもパニックにならずに精神を維持する事にもなるかもしれない。


髪 そして髪型を変えよう。んーもっと早くてもいい気がする。しかしながらここに来て初めて人に影響を及ぼすような行動が取れるようになるのではなかろうか。努力が効力として見えてくるのがこの段階だろう。


そこに立って初めて僕らは念としてのモテを体得する訳だ。


舌は習得すればほぼできるようになる為、ひたすら纒、そして歛を繰り返せば僕らは大きなモテ力を得られるのではないだろうか。


まずは落ち着く。模索する

そして無難を覚える。

自分なりの結論を出して取り組む。

そして出た結果を利用して次段階にすすむ


そして模索と結論の繰り返しによって望む結果は得られるのだ。


大抵の場合僕のような発達障害者はここでいう絶が苦手だ。


主人公のゴンは絶をかなり危険な方法で体得した。


戦いの最中、絶を意識をある行為の一点に全集中させる事によって体得したのだ。


つまり多動や言葉がうまく出てこないことは案外集中によって改善するのかもしれない。熱中する事があれば多動は改善するし、言語も自分の得意な分野ならどんどん出てくるしそうでないならただ、受け答えに専念すればいいのかもしれない。清潔感の体得もそうだ。ある時間を髭剃り、洗濯、清潔に集中する事によって得られる。ある一点への集中し、僕らのエネルギーを他へ分散しない事が絶、つまり社会適応への必須課題なのかもしれない。


そこから個性の発露である発の話に入るのだろう。


次は個性別の発の話に入る。



心の腸内環境、整ってますか?ミームの細菌環境 メンタル プロバイオティクスの話


生まれながらの性質と幼少期の成功体験によって僕らの人生の生き方の半分くらいは形作られているんじゃないか。そう思う。

どだい猫然りバクテリア然り彼らはおそらくなにかを考えて生きている訳ではなく自然発生的に遺伝子の箱舟となった訳だから僕らはおいそれとその遺伝子の形質に抗う事が出来るのか?というのが僕の持論だ。

然しなから、抗うことの出来ないナニカに対していかに向き合うか?まるで病のように僕らを苦しめる適応できない苦痛をいかに緩和して心安らかに日々を過ごすのか?そういう事に関して努力して帰ることが出来るのではないかと考えている。

我々の社会は思っているほど不都合でもないし、残忍なほど合理でもない。
故に多くの複雑さを産んでいる。それがかえって人間の判断を苦痛へと導いているんじゃなかろうか。

僕はそんな社会の中で抱えている思考の停滞や不調を腸内細菌環境に例えて、ミームの生息環境、プロサイコティクスを整える事によってかなり改善されるのではないだろうかと思っている。

同じような言葉でサイコバイオティクスという言葉もあるが、それは細菌環境によって健康になろうという考えかたであるが故に機序が全く違う。

脳も思考や情報という細菌のような無数のミーム(頭の中にある価値判断や行動に影響を与える思想や知識を寄生生物に例えたもの)が生息しているんじゃないか。と仮定した。

今まで僕らはミームは数少ないものだと考えていたが。思想や信仰、癖、行動障害、意識無意識を問わず、僕らにはミームが無数に存在し、常在菌のように蔓延っている。

つまりその中には善玉菌ならぬ善玉思考、悪玉思考があって、そして圧倒的多数の日和見思考がぞんざいしているのではないか?と考える。

その中には都市伝説やCMなどの伝染性のミームもあり、僕らはミームを知らず知らずのうちに共有している。

故に感染力の高い思考細菌、非常に人を蝕む思考細菌なども存在するのではないかと考えた。

それは僕らの元来は僕らの脳と共生関係にあるが、時に病原ミームに感染したとき、あるいは免疫が落ちているとき、ミームのバランスが崩れて体調不良を起こすこともあるのではないだろうか。
それらを踏まえていくつか衛生に見立ててその健康予防法をいくつ紹介したい。

まず腸内細菌ならぬ、脳内細菌において最も必要なのは多様性だ。いろんな人の意見や見方、考え方を感じ取る事は結果として様々な価値観が増える事にもつながり、心の健康に繋がりやすい。

ノロウイルス、インフルエンザのような病原ミームに気をつける。
例えば軽い風邪のように、恐怖を煽るミームとしては都市伝説などがいい例だ。口裂け女トイレの花子さんなど、根拠はないのになぜか怖い。そんなようなものはあるだろう。そしてそれは慣れるとなぜ怖かったのかわからなくなったりする。
特に重篤なミームとしては、ロシアで起こったインターネット集団自殺のようなケースやオウムのような洗脳のケースだ。都市伝説のようなものは感染力は強いが、精神毒性は弱い。また洗脳のようなミームは感染力自体はさほど高くない。だが毒性の強いミームは、僕らのミームの脳内環境を根本から殺菌し独占してしまうこともある。そういった危険ミームには大いに気をつけるべきなのかもしれない。しかしながら解決策もある。僕らにも免疫と同じように、新しいミームが侵入してきた時に他のミームとを照らし合わせて、脳が異物だと判断すればそのミームの繁殖を抑えることも出来るのだ。
つまりミームにおいでワクチン足り得るのは事前知識なのかもしれない。事前に相対化できるような情報を頭にいれておけば、その情報にたいしてある程度相対的な見方ができる。

僕らに今必要なのはミームの多様化と健全化だ。それのヒントはもしかしたらヨーグルトの中にあるのかもしれない。心のヨーグルトは何処にあるのだろうか!





座間市の連続殺人白石隆浩によって僕らは

今回の連続殺人によってインターネットでの人間関係の私の持論を変えざるを得ない状況になったのでそれを書きたい。


以前書いた、僕らに死ぬ場所をくれ。という記事を書いたが、あれが間違った方に作用する可能性が出てきた。


基本的に政府に出来ることは、慈善、あるいは企業によって少々歪んだ形によって代替する事がある程度可能だ。と考えている。


しかし、個人や企業が自分の合理や思惑によって行動する性質がある以上、(行政も大概そうなのだが)あるべき形から歪んでしまう。


自殺したい。という願望を叶えて欲しい人達が一定数いる中で、僕らは倫理的な側面からそれを許容する事が出来ない。小学生の3割が死を考える時代だ。それが心的状態などによって自殺的行動に移すことも少なくない。


その願いを個人が代行するためにシリアルキラー達がその役割を担う可能性があった事を僕は可能性として考えていなかった。


殺されたい人達が殺したい人に自分の命を委ねる。それは一見して完結しているように見えるが、自浄作用が働かない。その自浄作用は個人の酌量に委ねられてしまうのだ。


その自浄作用を倫理の壁、という事にしよう。僕らが公的な機関や場所においては個人の議論が闊達に成る為、ある程度の個人の倫理観が民意となって、行動に制約がかけられる事がある。例えば昨今の不倫騒動などはその多少の悪例だろう。個人間の自己責任における法的責任のない悪事にすら他人の目が介入する事によって行動が制限される。それは嫉妬や利己的な感情もあるだろうが、ぼくは大多数の人達が自分の倫理的にこの人の行動をやめさせなければならない。と考えているが故の事だと解釈している。そんな倫理の壁が僕らに不自由を被る一方で、ある程度の恩恵をもたらしているのではないか。そんな風に思うのだ。


2015年が倫理の壁が摩天楼を築いた時代だとするならば、

二年経た2017年は倫理の壁の隙間で起きる悲劇に焦点の当たる年になったのではないだろうか。


Twitterのダイレクトメールなどでやり取りがされていると個人間のやり取りには他人の目が介入しない。その為に倫理の障壁が存在しなくなるのだ、


そういった隙間につけいった自殺補助のシリアルキラーは暗躍を始める。


そういった人たちに対して、僕らはどういう行動をすれば対応できるのか?という問題にぶち当たる。


そういう時に必要なのは、ある程度のリテラシーを持った助言者だと考える。


誰かが自殺したいと考えた時、悩んでいる時に、冷静に助言や仲裁を行える存在を作っておく必要がある。それは家族や、近しい友人が理想だが、ぼくはそれがインターネットにあってもいいと思うのだ。

インターネットの利点は匿名性と能動性だ。


匿名的に、自分との関係を限定的に説明したり、気概を加えられない形で自分の思っている事を相談したり、時として助言してくれる相手がいてもいいと思うのだ。


インターネットにシリアルキラーがいる。しかしながらその犯罪を止めたいと思っている人間もその何万倍も存在する。


少し、ほんの少しだけ誰かにそれがいいかどうか確認できる相手を作っておくだけで、この手の犯罪はかなりの割合で抑止出来ると考える。倫理の壁を命綱に変えるのだ。


本当の恐怖は孤立だ。だれも助けてくれない状況に置かれた時に人は悲劇に巻き込まれる


自分が絶望に浸った時、辛くて死にたくなった時、誰かが止めてくれる事が必要なのだと思う。


倫理の壁は人を不自由にする。しかしながらそれなしでは僕らは自由になる反面、大きなリスクを負う事になる。


もしネットでの人付き合いが多く、自分の子供が不安な親がいるとしたらこう助言したい。


「ネットは便利だし多くの価値観に触れる機会だと思うし止める理由はあまりないとは思う。だけれど、自分が何かしたいと思う時、それがいいか悪いかをある程度相談出来る相手を作っておきなさいと助言すべきだと思う。倫理の命綱を忘れるな。


そう言っておきたい。


ネットの闇みたいなものが昨今よく取り沙汰されるが、ぼくは何度となくインターネットを使って人と会ってみたが、そんな世界を体験した事がない。とはいえ実際にそんな人達がいるのもまた事実である。その明暗を分けるのはきっと、何か怪しい。とか、個人の倫理観の制約や感性によっている部分が大きいと思う。またそれを最低限の範囲で相談出来るのもSNSだと思うのだ。


人はそんなに怖くない。そう思っていた。しかしながらそれは結局は誰かとの繋がりのおかげなんだろうなと感じもした。見えない壁の中に守られて不自由の中をいくのか?それを破って危険な領域に飛び出すのか?その二元論はもう終わった。これからは倫理の命綱として、人とのコミュニケーションを利用しつつ挑戦する時代になっていくのかもしれない。



僕らに迷惑にならずに死んでもいい場所を下さい。


他人に迷惑をかけるな。

親にしょっちゅう言われた言葉です。

迷惑をかけたらごめんなさいと言いなさい。と、

何度となく教わりましたので僕の中には親からもらった大切な人生訓として僕の胸にあります。

その後の空手、剣道あたりから武道をかじるようになると、葉隠の”武士道とは死ぬことと見つけたり”の一文がいやに目につき、自分の恥や失敗の責任の取り方は死をもって償う覚悟が必要だ。というものが自分の生き方の指標になりました。新撰組のよろしく、自分のルールに外れるくらいなら死んで責任を取るくらいの覚悟で臨まねばならない。という志がとてもキラキラして見えました。


しかしながら、ADHDの性ですね。世の中には数多のミスとシャレにならない大きなミスはごめんなさいでは解決しないのです。その辺を教わってませんでした。


現実は失敗ばかりです。自分で心に決めたルールなぞゴミのように扱われ、プライドを持って物事に取り組んでいくのだ。なんていう美学は返って足かせにしかなりません。自尊心の欠乏もあいまってルール守れないくらいなら死ね。今すぐ腹を切れと自分が囁いてくるわけです。


そしてウチは特定の宗教には支持していませんので自殺はOKです。

(なので人に迷惑をかけたくない。)(自分の決めた事を守れないならば潔く死ね。)


というのが度重なるプライドを叩き折られる度に思っているわけです。


これはいくらなんでも社会的に適応出来ないので自殺したいと何人か相談したところ、死にたきゃ勝手にしねやら、なんで生きているの?と返され、社会からもほぼ必要とされていないしそろそろ自殺でもしようかと考えてはいるのですが、(むしろ親の経済的負担も考えれば今すぐにでもした方がいいのかも)したいと思ってもなかなか出来ないのが実情です。


せめて人に迷惑のかからない形で自殺したいと思うのですが、


とかく日本は迷惑をかけずには死ねない文化ですね。

主な自殺方法として首吊り塩素ガス飛び降り練炭 殺人による死刑 どれも迷惑がかかりすぎてしょしょうがないのです


社会的には自殺率の向上は治安の悪化のような印象を受けますが、アメリカの中絶によって犯罪率は激減したように、自殺の主な層は社会的弱者に非常に多いので経済対策、社会福祉の一環としても有効なので国のためにもなるのではないでしょうか。


例えば土地単価の非常に安い土地の一本道の終わりに、私設でもいいからそこに火葬場をと安楽死施設を作るべきでしょう。


しかしこれをやると相反する面白いロジックが起きるのではないかと思っています。

もちろん反対派が毎日そうするとその周りに押し掛け、それを阻止したいという団体が大挙として押し寄せるでしょう。そこに無料でブースを設ける。そうするとそこに向かう途中でありとあらゆる団体がそれを阻止する。つまり死にたい奴に嫌でも支援の手が注がれるのです。そしてそうしてどの支援にもコミュニティにも属せない奴だけが最後の手段を持って死ねばいい。


俺は今の下手な支援施設よりよっぽどマシになると思うのですが。


また事例として、死刑制度がある為に死刑廃止を訴える方々はその罪人が死刑にならないようにあの手この手で支援を差し伸べている人がいます。その一方で、明確な悪の見えない貧困や自殺に対しては積極的なアプローチがされないでいるようにかんじます。


死刑制度撤改革の為に死刑囚を助けるのも結構です。しかしながらほかの犯罪を犯す前の段階で止める手段も必要なんではなかろうか。その為に最悪へのルートを一点にまとめる事が実は必要なのではないでしょうか。


自殺に関しても同じで、死ぬための手段が殺人しかないから人を殺す。それより安楽死施設作りましょうよ。そして死にたい奴を人知れず殺す世の中やめて、面と向かって助けられるようなシステム作りが俺は必要だと考えます。安楽施設のような間違っていて明らかにおかしいようなもので、それを正すためのみんなの正義の心を喚び醒まさなきゃならない。炎上のメカニズムと似ている節がありますね。


自分が自殺したい話してるはずなのに人救う話してるあたり救えないなぁ。